ジャパニーズ・ティー・ガーデン(The Japanese Tea Garden)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコにある日本庭園。ゴールデン・ゲート・パークの一部を構成する。1894年に開かれた国際博覧会の際に造園され、公共の日本庭園としては米国で最も長い歴史を持つ。およそ20,000 m²の敷地には、池や建築物、多くの小径や橋が配置され、日本や中国の植物が植えられている。この庭園は「日本茶庭園」「日本茶園」「日本庭園」などの名で紹介されることもある。歴史1894年、前年に行われたシカゴ万国博覧会に倣い、ゴールデン・ゲート・パークを会場としてカリフォルニア冬季国際博覧会が開催された。この博覧会のための一時的なアトラクションとして造られたものが、この庭園の起源である。その際、日本から宮大工の中谷新七(1846-1922)が招聘され、中谷は私財を投げ打って最高級の資材を調達し、サンフランシスコへ輸送した。博覧会の終了後、サンフランシスコで料理店を一時経営していた日本人移民の萩原真(1857-1925)は、ゴールデン・ゲート・パークの設計者・運営者であるジョン・マクラーレンに対し、この庭園を恒久的な公園の一部にするよう提案した。当時アメリカで異国情緒あふれる日本庭園に料亭や茶店を加えた施設が好評を得ており、萩原もそうした事業展開を考えてのことであり、庭園内の茶屋で煎茶と瓦煎餅を提供した(前年のシカゴ万博で日本館の敷地に茶店がいくつか立ち、萩原はそこで働いていたとも言われる)。1895年から1925年まで、萩原は庭園の公的な管理人(caretaker)を務め、庭園を運営した。萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、1000本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せた。萩原のもと、庭師たちは庭園の拡充・整備に取り組み、現在の景観をつくり上げていった。園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。1925年に萩原真が没した後も、その家族は園内に暮らし、庭園の維持・運営に従事していた。しかし、第二次世界大戦における日米開戦後の1942年、大統領令9066号によって萩原家の人々はほかの日系人とともに収容所に移転させられた(日系人の強制収容参照)。ジャパニーズ・ティー・ガーデンも「オリエンタル・ティー・ガーデン」(Oriental Tea Garden)に改名された。園内のティーハウスの運営も萩原家から中国人の手に渡った(2007年時点では引き続き中国人が経営)。